本当の喜び

遅くなってしまいましたが、先日は山形市オリハントさん。ムラタトモヒロさん、ロックおじさん、山さんと共に大変面白い夜をご一緒させていただき、ありがとうございました!

見てくださった皆さま、ありがとうございました。

またお会いしましょうね。

 

オリハントさん終演後、かなり久しぶりに、大好きなフロムダスクという米沢のお店に立ち寄って、マスターと話をしていた時に気づいたお話。

久しぶりのブログ更新します。長いです。散文です、お暇なときはどうぞ。

 

雪国育ちの私は、幼いころから雪と戯れていた。

 

小学校に上がる前から両親に連れられてスキー場に遊びに行っていたと思う。

昔からわんぱくで、運動が好きだったので、大人も怖がるような凸凹したコースも、勢いだけで直滑降で滑り降りていた。

 

子供心に、もちろん怖かったけれど、転ばずに下まで下りきった時は快感だった。

 

多分、なのだが、子供の時分は、関節が柔らかかったのだと思う。

直滑降で走り出してしまったら止まることができないので、とにかく、ひたすらに、転ばない事だけを考えていたのだけれど、

無事、転ばずに下りきれた場合はきっと、膝は自然と柔軟に曲がり、重心を取っていたはずである。

 

その後、小学校でスキー授業というものがあり、改めて、『パラレルターン』や『エッヂを効かせる』というワードを知ることになる。

 

『パラレルターン』や『エッヂを効かせる』のは、急勾配の斜面を安全に下まで降りきるための技術だ。

だけれど、わたしはここで、わがスキー人生で初めての躓きを覚えました。

 

多分、なのだが、生まれながら雪と戯れている雪国の小学生たちは、

習う前からターンもそれなりに出来ている子が多い。私もそうだった。

 

しかし、『スキー板を斜面に対して立たせて、エッヂを効かせてカーブする』などと説明されると、

私はかえってこんがらがって、頭と体がちぐはぐな動きをして、盛大に転ぶのである。

 

それから、スキー授業が徐々に面白くなくなり、スキー自体への、情熱が薄れていったことを覚えています。

 

田舎のスキー授業は、上手なチームから苦手なチームまで、大体6~7班に分かれていたと思います。

学校の体育の先生だけでは全部の班を見切ることができないので、

同級生のお父さんやお母さんでスキーが得意な人が、有志でボランティアをしてくれていたように記憶しています。

だから、指導という事をやったことがない、お父さん、お母さんが一生懸命、言葉や知識を教えてくださっていたのだと思います。

だから、『この指導によってスキーが嫌いになりました』みたいな、批判的な事を言いたいのではなく。

 

 

最近、様々な出来事を通して、似たようなことを感じたのです。

 

 

大人になると、物事を客観的に、論理的に捉えることが必要とされる場面が多くなります。

筋道を立てて、考えて、道理を通していくことを求めらると思います。

 

これがスムーズにできるようになると、自分自身の問題解決も早くなりますし、

考えや意見を他人に伝わりやすく述べられるようになったり、と便利です。

 

ですが、最近、『言葉に頼らず考える』という体験をしました。

言葉で確認をせずとも、五感を使えばわかること、ということが、事実、あります。

 

人は緊張すれば、顔の血の気が引いて、手足が冷たくなったり、食べ物が喉を通らなくなったり、自分が注意を向けている音以外の音が聴こえ辛くなったりします。

逆にリラックスしているときは、体の隅々まで血がめぐり、肩の力は抜け、視野が広くなったりします。

また興奮しているときは、顔は紅潮したりします。

そんなふうに、頭で考えなくとも、体には反応が出ています。

それらの反応に耳を傾けたら、わからなかったことが理解できたりしました。

 

言葉で考えて、言葉に縛られているような感覚になったら、一度、

 

五感で、体の反応で、感じるままに物事をとらえてみるのもいいかもしれないな、と思ったのでした。

 

明日は月刊あべあいこ、10月号です。

今回はゲスト無しのワンマンです。

新しい楽曲の披露や、即興演奏をしようと思っています。

それからいつもより少しだけ、お話に時間を割けたらいいな、と思っています。